いなり寿司の歴史は、古く江戸時代にまで遡ります。
江戸時代末期に、江戸時代後期の三都(江戸・京都・大阪)の風俗、事物を説明した一種の類書として書かれた『守貞謾稿』に初めていなり寿司が登場しました。当時から安価で美味しく、庶民に愛される味で、手軽な食べ物として人気を博しました。
また嘉永5年(1852年)発行の「近江商買狂歌合」には、いなり寿司を売る商人の姿が描かれており、ざるや木桶、木箱、カゴを前後に取り付けた天秤棒を振り担いで売る「振売(ふりうり)」というスタイルで売られていました。その後、幕末になると店舗でいなり寿司を売る店も現れ、大いに繁盛したと言われています。
振売(ふりうり)の様子
※元画像は国立国会図書館デジタルライブラリー
そもそも、いなり寿司がなぜ「いなり寿司」と呼ばれるようになったのか、明確な由来は未だ分かっていません。いなり寿司研究の第一人者で、清水すしミュージアム名誉館長の日比野光敏氏によると、稲荷神社の主神は「宇迦之御魂神(うかのみたま)」という五穀豊穣の神様で、別名を「御饌津神(みけつのかみ)」と言いました。そこに狐の古い呼び方である「けつ」が重なり「三狐神」と解されるようになり、そこから宇迦之御魂の使いは狐とされ、稲荷と狐の関係が生まれたと言われています。
また、狐自体も穀物を食べるネズミを捕食することや、尾の形や色が実った稲穂に似ているところから、古く平安時代から動物を神の使いとする信仰の対象であり、そこに稲荷信仰が習合し、江戸時代になって稲荷神が商売繁盛の神ともてはやされるようになり、今日へと続く信仰が生まれたと考えられています。
稲荷信仰の総本宮である京都の「伏見稲荷大社」には、稲荷の由来として次のような物語があります。
奈良時代の「山城国風土記逸文伊奈利社条」によると、「秦氏の祖先である伊呂具秦公(いろぐのはたのきみ)が自らの豊かさを奢り、餅を的にして弓を射ようとしたところ、その餅が白い鳥に化して山頂へ飛び去り、そこに稲が生ったので(伊弥奈利生ひき)、それが社の名となった」とあります。
その山は、元々伊奈利山と呼ばれており、この由来から「稲生」、「稲荷」へと転じたと考えられています。
いまなお学術的な研究が続いている稲荷神社といなり寿司。諸説ありますが、稲荷神社が庶民の厚い信仰の対象であり、いなり寿司も多くの人々に愛され、食されてきたことには変わりません。
私たち全日本いなり寿司協会では、生活に根付いた文化と風習を尊重し、現代を生きる多くの人たちにいなり寿司の魅力を伝えてまいります。